震災と私と今

当時の私は、大学を卒業して2年目のチャラチャラした青年でした。

少し話は飛びますが、私の友達は就職してものの半年も経たないうちに「面白くないから」という理由で会社を辞めた者もいました。

入社式が東京の日本橋の本社で執り行われたので、会社が手配してくれた宿に全国各地から新入社員が集まり前泊しました。

「俺は九州から」「俺は名古屋」「俺は大阪」といった具合に、南は沖縄~北は北海道まで120人。

宿の部屋は和室の4人部屋でした。中央に廊下、その両サイドに部屋が配置された趣のある木造2階建てで、私の部屋は2階の階段を上がったすぐの部屋でした。

始めルームメート3人と初顔合わせの懇親会という事で宿の自動販売機でビールを買ってきて乾杯しました。学生時代の話や車の話で盛り上がり、

1本が2本3本となり、人も1人増えまた2人増えで部屋に入りきらない位大勢になっていました。今考えるとみんな初めて会う人ばかりで心細さと緊張感があったので集まってきたのかなと思います。

人が集まると不思議と役割分担が決まってくるもので、買い出し担当から、宿の自動販売機の酒がすべて「売り切れ」たと一報が入りました。

確かに、ハイペースで飲んでいたので部屋は空き缶空き瓶の山になっていました。

遠くで誰かが宿の人に近くの酒屋の場所を聞いてる声が響き、それから少しすると満面の笑みを浮かべた2~3人の買い出し担当が、「買ってきました~」と大量の酒とアテをテーブルに置いてくれました。

宴会は深夜まで続き、とても楽しかったのを覚えています。

翌朝、二日酔いの者同士助け合いフラつきながら入社式に出席し、式中ずっと辛かったの覚えています。(人事担当の方、宿で騒いでご迷惑をお掛けしてすみませんでした。)

その結束のおかげ・・・??で 、その後、1カ月間の山梨県の河口湖での研修で事件が起こってしまうのですが、それはまた次の機会にお話しします。

とにもかくにも入社式前日にバカみたいに大酒を飲んで騒ぐといった軽率な行動をとる若者だったという事です。

よって、神戸でも何も考えず言われた事だけをやっていた私は、ある日同僚と作業員の方と神戸中央郵便局へ向かいました。

当時、どの建物にもその現象は起きていました。ちょうど地中梁を貫通し屋外へ排水する配管(給水管・ガス管も同様)が地震よって周りの地盤が沈下したことにより地中梁を出たところで折れてしまい、建物内から思うように排水できない状況になっていました。

現場は地下ピットへ汚水を一度溜めてからポンプアップで排出する仕組みでした。

現場は、まだ配管が完全には折れておらずほんの少しの配管の隙間から少しずつですが排水できる状況でした。

屋外に設置された排水先である600Φくらいの会所(深さ2m位だったと思う)に作業員の方が入って、地盤がずれて閉塞している配管断面を斫り機で斫り、流れるようにしようと試みましたが、斫れば斫るほど建物側に溜まっている大量の汚水が噴出してくるのです。ものすごい臭いが辺りに漂い、数分も経たないうちにギブアップした作業員の方が会所から出てこられました。

「これ・・無理やわ」

その言葉を聞いても何一つ発言できず、また、何も出来ないフニャフニャの自分がいました。

そこへ、灯光器(懐中電灯のでかい版の仮設の照明器具)と飲み物をもって現れたのはFさんでした。

Fさんは、「よしだ~どないしたんや~」 他にも 「なにしとんねん~!」

みたいな内容の事を言われたとおもいますが、はっきり覚えていません。

どこの方言かわかりませんが、スローな独特のしゃべり方をする人でした。

Fさんは、おもむろに会所にもぐり込み斫り始めました。今思うと合羽も着ず作業服のままで斫っていました。

気付くと辺りは薄暗くなっていましたので、会所の中を照らす為に灯光器の電源を探して照らしました。

Fさんは何一つ言葉を発せず黙々と作業を続けていました。しかし、なかなか作業はかどりません。休憩を何回かはさみ作業は続きます。

「たばこ」といって時たま顔をだして 吸うのですが、顔中汚水まみれです。

辺りはもう真っ暗です。

真っ暗な闇の中で ぼやーっと光る灯光器が照らす光の周りに、数人の男が会所を覗き込んでいます。そして会所からはコンクリートを斫る音が絶え間なく響いてきます。

郵便局の人も心配して何度も何度も・・・ほんとに何度も作業の中断を申し出てくれましたがFさんは聞いてくれません。

私は、見ているだけです。

 

「代わりますFさん」の言葉も出すことが出来ず。

 

その時自分の無力さと意気地の無さを思い知り、目から自然と涙が流れました。

多分そのような事で流れたと思います。

後で聞いたことですが、Fさんは我々に合流する前、郵便局の人との打ち合わせで、この建物がこの一帯で唯一水が出てトイレが使用可能な施設である事とそれを利用する人たちがものすごく多い事を聞いていたようです。

それからしばらくして汚水が噴水のように吹き出し、Fさんは会所から出てきました。

もうめちゃくちゃな出で立ちでした。

そのあと郵便局で唯一お湯の出るシャワー室を貸してもらい綺麗になったFさんから、私は大切な事を学びました。

それ以後色々な経験をさせていただきましたが、恣意的な自分の心の垣根を取り去ってくれた出来事として今も記憶に残る出来事です。

自分の仕事に対しての取り組み方にとても大きく影響していると思います。

 

最後に、私は震災で何一つ失っておりません。ただ、阪神淡路大震災を経験し必ず復活できる事は心に刻みました。なので今非常に苦しい状況にある九州は、あきらめず前へ向かって必ず立直ると確信しています。

3回にわたって体験を書きました。今では懐かしい思い出です。私は現在40代ですが、

20代・30代と色々と経験させていただいたと思います。当然これからも色々な事があると思いますが、今20・30代の人は苦しいことから逃げないで怖がらず、分かれ道に来た時はいばらの道を選択してほしいと思います。そして悪戦苦闘してください。必ず将来役に立つと思います。

 

その後、Fさんは郵政大臣から功労者として感謝状をいただきました。

「こんなんもーても~ 柄じゃないわ~」とFさん節が聞こえてきそうです。

 

 

 

 

 

地震と私・・・(2)

神戸支店配属となりましたがネジロは相変わらず転々としていました。

一ヶ月半経ったくらいに加納町のビジネスホテルがようやく営業できる状態になったようでそこが常宿となりました。(今考えると会社の誰がそんな段取りをしていてくれたのか・・・)

部屋に入るとベッドがあって、お風呂もトイレもあるのです。ツインの部屋で結構広めのへやでした。Roomメイトは23歳で地震前の11月に結婚したばかりの後輩でした。

ウエットティッシュで体を拭く事も歯磨きをためらう事も無縁の世界です。

食器を洗った残り水を洋風大便器のロータンクに入れて洗浄に使うこともありません。

水が蛇口から普通に出るのです。

ただし給湯設備が破損してお湯が出ませんでしたので湯船にはつかれませんが、頭は洗えました。

まだちょっと寒い時期でしたが私と後輩はヒーヒー言いながら冷水シャンプーで大満足。3日に一度頭を洗いました。

食事は、朝昼はおにぎりと菓子パンで済ませ、夜は船員会館というところで皆とテーブルを囲むことが出来ました。

そこの食堂は夜になるとほぼ工事関係者で一杯になりますが、我々の席は指定席として確保されていました。(今考えると会社の誰がそんな段取りをしてくれていたのか・・・)

メニューは全てインスタント系の冷凍食品でしたがお米は炊きたてを出してくれました。

確か、ご夫婦とそこの娘さんが2人おられて、給仕にあたってくれていました。

食事代は会社が出してくれましたが、アルコール類は自己負担です(当たり前ですが・・・)。

でも、M部長が「お前ら、好きなだけ飲めっ!」と言って毎日飲ませてくれました。5~6人で毎晩必ず、日本酒か焼酎の一升瓶が1本が空いていました。

ウイスキーはチェイサーのようになっていました。

たまに、「俺が釣ってきた!」と言ってイワシがテーブルにのりました。

いつ釣に行ってるのかは分かりませんでしたが、おいしかったのを覚えています。

日中の移動は、もっぱら50ccのミニバイクで移動しました。ミニバイクはわずか一日で暴走族のバイクのように爆音を轟かせる結果になります。

走行可能な道という道は、ひび割れや段差がある状況で、その段差に走行中のミニバイクのマフラーが引っ掛かりマフラーの継ぎ目が破損するのです。全台数がそうなりました。

そうこうしてるうちにランチを提供する店もちらほら出てきました。

関電ビルの近くで「牛飯始めました!」という手書きの看板を掲げるお店が一番最初だったと思います。一人で行きました。長蛇の列だったので時間をずらして行ったら品切れでしたが、店主みたいなおっちゃんが、「明日は兄ちゃんの分とっといたるからおいでや!」と言ってくれました。有り難い事です。人っていいなぁ・・・

しかし、次の日すごく期待して行ったら「一時休業」の手書き看板が小っちゃく風にゆれていました。涙)(続く)

 

地震と私・・・(1)

今から約21年前、平成7年1月17日 午前5時46分52秒 淡路島北部沖を震源としたマグニチュード7.3の大地震が起きました。当時私は大阪の会社で働いていましたが地震発生から1週間後、現地復旧作業の応援の業務命令を言い渡され現地入りしました。

往路は会社の車で社員数名と共に神戸へ向かいました。当時、神戸市役所の近くにあった神戸支店のあるビルについたのは夕方近くでした。

ビルのEVが地震の影響で使用できないとの事でしたので階段で4階へあがりましたが階段室の壁のいたる所にクラックが出来ていて、一部壁材が脱落している個所もありました。

3~4日は神戸支店の事務机をベッド代わりにして寝ました。その後は会社関係者の方の家で2~3日泊まらせていただき、それから2~3日は技術部長の知り合いの方が所有されていたクルーザーで泊まりました。

クルーザーは案外狭かったので(オーナーさんすみません)、みんな1週間以上お風呂に入っていないのもあり男臭が強烈でしたが、余震の恐怖からは逃れれたので一番ぐっすり眠れたのを覚えています。

結局大阪へ帰れたのは2週間後でした。お風呂で3回頭を洗ったのと、湯船につかった時の気持ちよさを今でも鮮明に覚えています。

3~4日の休暇をはさみ神戸へ戻ってから神戸支店配属の辞令が出ました。

それから2年間復旧・復興工事に携わりました。(続く)