カテゴリー別アーカイブ: 追憶

地震と私・・・(2)

神戸支店配属となりましたがネジロは相変わらず転々としていました。

一ヶ月半経ったくらいに加納町のビジネスホテルがようやく営業できる状態になったようでそこが常宿となりました。(今考えると会社の誰がそんな段取りをしていてくれたのか・・・)

部屋に入るとベッドがあって、お風呂もトイレもあるのです。ツインの部屋で結構広めのへやでした。Roomメイトは23歳で地震前の11月に結婚したばかりの後輩でした。

ウエットティッシュで体を拭く事も歯磨きをためらう事も無縁の世界です。

食器を洗った残り水を洋風大便器のロータンクに入れて洗浄に使うこともありません。

水が蛇口から普通に出るのです。

ただし給湯設備が破損してお湯が出ませんでしたので湯船にはつかれませんが、頭は洗えました。

まだちょっと寒い時期でしたが私と後輩はヒーヒー言いながら冷水シャンプーで大満足。3日に一度頭を洗いました。

食事は、朝昼はおにぎりと菓子パンで済ませ、夜は船員会館というところで皆とテーブルを囲むことが出来ました。

そこの食堂は夜になるとほぼ工事関係者で一杯になりますが、我々の席は指定席として確保されていました。(今考えると会社の誰がそんな段取りをしてくれていたのか・・・)

メニューは全てインスタント系の冷凍食品でしたがお米は炊きたてを出してくれました。

確か、ご夫婦とそこの娘さんが2人おられて、給仕にあたってくれていました。

食事代は会社が出してくれましたが、アルコール類は自己負担です(当たり前ですが・・・)。

でも、M部長が「お前ら、好きなだけ飲めっ!」と言って毎日飲ませてくれました。5~6人で毎晩必ず、日本酒か焼酎の一升瓶が1本が空いていました。

ウイスキーはチェイサーのようになっていました。

たまに、「俺が釣ってきた!」と言ってイワシがテーブルにのりました。

いつ釣に行ってるのかは分かりませんでしたが、おいしかったのを覚えています。

日中の移動は、もっぱら50ccのミニバイクで移動しました。ミニバイクはわずか一日で暴走族のバイクのように爆音を轟かせる結果になります。

走行可能な道という道は、ひび割れや段差がある状況で、その段差に走行中のミニバイクのマフラーが引っ掛かりマフラーの継ぎ目が破損するのです。全台数がそうなりました。

そうこうしてるうちにランチを提供する店もちらほら出てきました。

関電ビルの近くで「牛飯始めました!」という手書きの看板を掲げるお店が一番最初だったと思います。一人で行きました。長蛇の列だったので時間をずらして行ったら品切れでしたが、店主みたいなおっちゃんが、「明日は兄ちゃんの分とっといたるからおいでや!」と言ってくれました。有り難い事です。人っていいなぁ・・・

しかし、次の日すごく期待して行ったら「一時休業」の手書き看板が小っちゃく風にゆれていました。涙)(続く)

 

地震と私・・・(1)

今から約21年前、平成7年1月17日 午前5時46分52秒 淡路島北部沖を震源としたマグニチュード7.3の大地震が起きました。当時私は大阪の会社で働いていましたが地震発生から1週間後、現地復旧作業の応援の業務命令を言い渡され現地入りしました。

往路は会社の車で社員数名と共に神戸へ向かいました。当時、神戸市役所の近くにあった神戸支店のあるビルについたのは夕方近くでした。

ビルのEVが地震の影響で使用できないとの事でしたので階段で4階へあがりましたが階段室の壁のいたる所にクラックが出来ていて、一部壁材が脱落している個所もありました。

3~4日は神戸支店の事務机をベッド代わりにして寝ました。その後は会社関係者の方の家で2~3日泊まらせていただき、それから2~3日は技術部長の知り合いの方が所有されていたクルーザーで泊まりました。

クルーザーは案外狭かったので(オーナーさんすみません)、みんな1週間以上お風呂に入っていないのもあり男臭が強烈でしたが、余震の恐怖からは逃れれたので一番ぐっすり眠れたのを覚えています。

結局大阪へ帰れたのは2週間後でした。お風呂で3回頭を洗ったのと、湯船につかった時の気持ちよさを今でも鮮明に覚えています。

3~4日の休暇をはさみ神戸へ戻ってから神戸支店配属の辞令が出ました。

それから2年間復旧・復興工事に携わりました。(続く)